
2024年12月10日
- 企業・経営
- トピックス
2024年11月、パナソニック ホールディングス株式会社(以下、パナソニックHD)と株式会社PHP研究所(以下、PHP研究所)は、株式会社松尾研究所(以下、松尾研究所)と共同で、パナソニックグループの創業者である松下幸之助の理念継承を目的とする人物再現AIを開発。膨大な歴史資産を最大限に活用した研究成果は、幸之助の誕生日である11月27日に東京都内で行われた「松下幸之助生誕130年記念シンポジウム 経営で大切なことはみな、松下幸之助が教えてくれた」で公開された。
開発のキーパーソンであるパナソニックHDの河村 岳(かわむら たかし)と松尾研究所の大西 直(おおにし ただし)氏に、具体的な取り組みや両社の強みを掛け合わせた今回の再現AIの特徴、今後の展望について聞いた。
パナソニックグループの社員は、「社会の発展への貢献」を実践する際に経営基本方針をよりどころとしている。この経営基本方針の基となるのが、グループの社員に脈々と受け継がれる松下幸之助の哲学に基づく経営理念だ。幸之助が生涯をかけて追い求めた「物と心が共に豊かな理想の社会」の実現は、現在もグループの存在意義として掲げられている。また、幸之助の思想や言葉など数々の歴史資産は、著書などを通じて多くの経営者にも認知され、現代の企業経営とも親和性が高いと言える。
創設以来、幸之助のPHP理念(Peace and Happiness through Prosperity:繁栄によって平和と幸福を)研究を継承、その啓発の一環として出版事業、産業教育事業を展開してきたPHP研究所では、『生成AI技術の開発が従来の研究課題の検証に新たなアプローチを与え、これまで不可能だった学際的な研究にも革新的な手法で挑戦できる』との期待があった。また、パナソニック オペレーショナルエクセレンス株式会社で、幸之助に関する膨大な資料や音声データを保管するのが、歴史文化コミュニケーション室(以下、歴文室)だ。同室のミッションは、これらの膨大な資産を最大限活用しながら、幸之助の理念をグループ内に正しく、時代を超えて継承すること。これまでもパナソニックミュージアムでの展示やオンラインコンテンツの拡充をはじめ、国内外でさまざまな取り組みを行ってきた。一方で、変わりゆく時代の中で、創業者理念を伝えることの難しさも課題になっており、「AIが、次世代への理念継承のための研究活動に活用できるのではないか」という思いもあった。こうした背景の下、今回のプロジェクトはスタートした。
パナソニックグループは長年にわたり、幅広い事業領域で社会課題を解決する革新的な製品やサービスを生み出すため、AI技術の研究開発と社会実装に取り組んできた。1990年代以降、音声認識や文字認識、顔認識、さらには言語処理といった、現在の人物再現AIの開発に欠かせない技術の基礎を開発。それらを搭載する商品を世に送り出していった。
河村:パナソニックグループは幅広い事業を通じ、お客様のリアルな空間でお役立ちを果たす企業。これらの事業でのAI活用は、個々のデータ構築やチューニングが複雑で、横展開しにくいという問題や、高品質や信頼性が求められるという特徴があります。このためAIの研究開発に当たり、実世界(フィジカル)のデータを仮想(サイバー)空間で分析する「サイバーフィジカルシステム」(CPS)の活用に注力してきました。
パナソニック ホールディングス株式会社 DX・CPS本部 デジタル・AI技術センター AIソリューション部 河村 岳(かわむら たかし)
河村:今回の人物再現AIの開発を可能にした大きなポイントは、パナソニックグループやPHP研究所が保有する幸之助の著作物や講演・対談などの膨大な記録と音声データ、直接薫陶を受けた人物や当時の情報に精通する人物の知見に加え、数万点に及ぶ膨大な歴史資料です。幸之助は創業60周年の1978年を間近に控えた1976年、歴文室の前身に当たる社史室を社長直轄で創設。自身の哲学の社内外への周知や、社史に関するあらゆる資料の保存・管理の徹底、社史の編さんに生前から注力してきました。こうして蓄積された膨大な歴史資産と最新技術の融合が、「人の思考と話し方を究極的に再現するDigital Human(※)」の生成への挑戦を可能にしたと言えます。
※人間をリアルにシミュレーションする技術の総称
河村と歴文室が議論をスタートしたのは、2023年12月頃。どんなデータがあるか、AIとしての実現可能性や開発目的(どのようにお役立ちをするか)などの「ゴール」に関する議論から始まったという。
河村:11月27日の生誕130年記念シンポに間に合わせることが必須ということは、「大変なプロジェクトになるぞ」と思いました。単に開発にトライすればよいという気軽なものではなく、最終的にはこの短期間のうちに、返答内容や生成される音声の質、映像の見栄えも意識しないといけません。2024年2月ごろから具体的な話を詰めるうちに緊張感が少しずつ高まったことを、今でも覚えています。
開発を進める中で、技術でどこまでできるのかは未知数な部分が多々ありました。このため、できること、できないことを随時きちんとお伝えしながら、誠実に開発を進めていく、という姿勢が大事だと思いました。歴文室やPHP研究所とは定期的にコミュニケーションを取りながら、実現可能性を検証した上で、ゴールのイメージを都度共有。結果的に8月末頃には世に出せるものになりそうだと判断した上で、具体的な部分を詰めていったのです。
今回の開発における技術のポイントは、①データクレンジング②リアルタイム処理➂ドメイン知識による改善――の3つです。
1つ目のデータクレンジングとは、誤りや欠損を含むデータの修正と適正化のことで、AI開発の前作業として避けて通れないプロセスです。今回の開発では、創業者の声をきれいにするため、専門のツールやノウハウがある松尾研究所さんに担当いただくことにしました。実はこれが初めての共創の機会でした。また、創業者の発言内容のテキスト(言語)データを、幸之助を模擬した音声データとして合成する試みは、われわれのチームで取り組んだことはあるものの、質問に対するテキストデータの返答を生成する言語処理技術に関する知見は十分ではありませんでした。そこでこの領域も松尾研究所さんと共同開発することにしました。
株式会社松尾研究所 シニアデータサイエンティスト 大西 直(おおにし ただし)
大西:データクレンジングでは、大勢が話している音声から、幸之助さん以外のものを特定して取り除きました。その後、不要な背景音などを除去。聞こえやすさや音質なども人手で改善、調整しました。自動と手動双方の作業が必要な、本当に地道な作業と言えます。
中には、これまでに私が扱った中で一番古い、1955年の音声もありました。また、年齢によって幸之助さんの話し方が変わり、特に80歳を超えた辺りのものは明瞭でなく、使いにくいといった問題もありました。故人であるだけに防音室で録音し直すこともできず、一般的な人物再現AIよりもはるかに苦労しました。
そのような中でも開発が進められたのは、音声と言語の2種類のデータがたくさんあったからだと思います。とはいえ、古い言い回しや幸之助さん独自の話し方が、LLM(Large Language Model:大規模言語モデル)で検索しづらいという課題もありました。歴文室の皆さんやPHP研究所さんに都度中身を確認しながら、現代風に直すなどの工夫を行うとともに、より幸之助さんの発言に近づけるようにクレンジングを行いました。
松下幸之助生誕130周年記念シンポジウムでお披露目した「松下幸之助」再現AIのデモ動画
河村:技術面のポイントの2つ目は、言語と音声の両データを使ったリアルタイム処理です。どのようにリアルタイムな返答や映像処理を実現するか、両社の知見を持ち寄りました。
大西:人物再現AIは質問者の音声を認識した後、返答生成→音声生成→動画生成というステップを踏みます。当初は返答生成後、一気に音声・動画を生成することを試みたものの、処理に時間がかかり、自然な会話と感じづらいという問題に直面しました。そこで、双方が協議を行い、音声を1文ずつに区切りながら、動画を生成する手法を採用することとしました。音がない箇所を自動検出したり、一定時間無音の場合に自動で区切る手法などもシステムに組み込みました。これにより、より自然な対話に近づいたのです。
河村:音声関連技術は、長年パナソニックHDが取り組んできた強い分野。幸之助の音声合成を短期間で開発した経験をベースに、松尾研究所でリアルタイム処理技術を開発いただきました。人物再現AIの音声返答では、CGや二次元キャラクターを動かすなど、映像処理の比較的軽いケースではリアルタイム処理も一般的ではあるのですが、実写の映像を合成する場合は映像処理が重くなるため、オフラインで動画を生成し、そこに音声を重ね再生するのが一般的でした。今回の一番のポイントは、リアルタイムで創業者の実写を動かす点。直前の質問に対する臨機応変な回答を、単にテキストで出力するだけでなく、音声や動画も合わせることで、見る人に「語りかけられている」という印象を与えることができます。このようなゴールのイメージを合わせながら、品質の担保についても最後まで追究しました。
河村:技術ポイントの3つ目が、ドメイン知識による改善です。テキストでの返答結果の正確さや本人らしさ、返答の長さ、音声、スピードについて、歴文室やPHP研究所の皆さんからのフィードバックを基に改善するサイクルを2カ月ほど回しました。チェックを重ねるごとに平均点は上がり、特に言語の返答生成は著しく改善しました。
大西:返答内容があまりに一般的だったり、「つまり」「要するに」などの口癖を連発したりする部分は、さらに幸之助さんらしくするよう工夫しました。こうしたサイクルを回すことで、「適材適所」「人間尊重」などの哲学に基づく言葉もより出てくるようになりました。フィードバックを基にした改善は必要不可欠だけに、松尾研究所の得意分野であるテキスト生成部分を生かしながら、地道に取り組んだのです。
動画生成についても「人間らしく」にこだわりました。例えば白黒とカラー、上半身と全身の映像では受ける印象が違うため、さまざまなパターンを試しました。また、まばたきの映像を複数人からもらい、AIのまばたきを自然なものにするなど、デモの寸前まで細部を反映しました。加えて、対話の速度も大切です。人間らしさを保ちつつ、速度を早めるための調整には返答生成、音声生成、動画生成、全体のシステム開発それぞれ専任をつけた上で、計6~7人の体制で取り組みました。
河村:パナソニックグループは、家電などに搭載する軽量化されたソフトウェアの開発や、画像・音声処理技術の面で強みを持っており、こうした面では力を発揮できました。一方で、全てを自前で開発するとコストがかかるので、既に世の中にある技術の有効活用にも配慮しました。
また、当社のAI倫理原則でうたうResponsible AI(あらゆるお客様の信頼にこたえる)の体現、すなわち創業者の存在を冒とくしないよう、開発に際しては、常に人手によるチェックを行うようにしたり、誤った発言を限りなくゼロにする点にも留意してきました。今後はAIの使われ方においても、AIが生成するテキストは、幸之助自身が発言した言葉ではないですので、AIのリアルタイム出力に対して、常に幸之助研究に携わる方が横について解説できるようにしたり、あるいはその出力を研究者がチェックした映像素材だけをオフラインで提供したり、といったことが必要だと考えています。
今回の再現AIは、PHP研究所や歴文室が、創業者研究に役立てることを第一義としている。
幸之助に精通したAIを上手に使えれば、幸之助の発信や考え方に短時間でたどり着くことでき、通常では見いだし切れなかった視点をつかめる可能性がある。また、音声と映像が組み合わさると、迫力や説得力が増すので、臨場感が大事な啓発活動においてその価値を発揮しうる。生成AIの特長である、個々のユーザーに合わせて提供するものをカスタマイズする「パーソナライズド」という概念も備えている。こうした特長を丁寧に活用すれば、例えばワークショップなどでも導入できないか、検討しているところだ。
大西:最近は生成AI関連で多くの技術が開発される一方で、せっかく作っても実際にはあまり使われないケースもあります。しかし今回の人物再現AIは、パナソニックさんの社員教育で使っていただけそうというゴールが定まった状態で開発を進められたので、やりがいがあったし、実際に使えるものにできたのが学びになりました。
今回のプロジェクトは、幸之助さんに関する膨大なデータを大切に取り扱い、幸之助さんを尊敬していて関連するデータを大切に取り扱う皆さんとの協働だからこそ、成し遂げられたと感じています。私自身も今回の仕事を通じて幸之助さんの哲学に薫陶を受けましたし、「中途半端なものは作れない」と刺激を受けながら開発を進めました。
松下幸之助歴史館で、一番好きな幸之助の言葉は「素直な心」と語る河村 ※創業者生誕130年 経営理念特別展を1月末まで開催
河村:パナソニックグループでは、お客様や社会へのお役立ちを常に中心に据え、AI技術を素早く製品やサービスに搭載していくことが大切だと考えています。そんな中、強みであるリアルタイムで軽くデータ処理をする技術がLLMの世界で活用できたのは、これまでに蓄積した知見があってこそです。今回のプロジェクトで、この感覚が得られたのは、とても良かったと思います。LLMは技術的にはパーソナライズが可能という特長があります。例えば、お客様を模擬したAIは、個人や特定のセグメントに向けたマーケティング分析などに使えるかもしれません。今回培った技術を、製品やサービスに応用する研究開発を進めることで、お客様へ価値を届けていきたいと思います。
今回の人物再現AIはパナソニックグループが推進するAI開発のほんの一例で、松下幸之助の理念の継承に向けた関係者の思いと、それを受けた社内外の技術者たちの開発の熱意が生み出したものだ。一方で、膨大な歴史資産のごく一部を学習した段階に過ぎず、まだまだ進化の余地があると言える。幸之助の理念継承をサポートするツールの一つとして適切に活用すれば、膨大な量の資料や人間だけでは成し得ない、より深く、かつ変化の著しい現代社会にも合致した示唆をもたらす可能性を秘める。
今後もパナソニックグループは、これまで培った技術を生かしつつ、AIを活用した研究開発や社会実装を通じ、社会の発展への貢献を続けていく。
記事の内容は発表時のものです。
商品の販売終了や、組織の変更等により、最新の情報と異なる場合がありますのでご了承ください。