松下幸之助「学ぶ心さえあれば」――パナソニックの歴史ものがたり Episode 06

2026年2月6日

企業・経営 / Stories

歴史ものがたり

松下幸之助「学ぶ心さえあれば」――パナソニックの歴史ものがたり Episode 06

歴史資料にまつわる創業者・松下幸之助のエピソードを紹介する「歴史ものがたり」。

今回は、幸之助が初めて海外へ渡り、アメリカを視察したエピソードを紹介します。

大阪駅で盛大な見送りを受ける幸之助(左は夫人の松下むめの)

大阪駅で盛大な見送りを受ける幸之助(左は夫人の松下むめの)

世界へ、一歩を踏み出す

1951年1月18日、幸之助を乗せた飛行機が羽田を飛び立ちました。行き先はアメリカ。戦後の苦境(※1)を脱すると、すぐに世界に目を向けたのです。当時56歳、初めての海外視察でした。 

出発前の1月6日、松下電器(※2)の経営方針発表会で、幸之助は宣言します。 

いよいよ、真に希望を持って立ち上がる時が来た。これまでの経営を白紙に戻し、世界的な視野で松下電器を再構築したい。その成果を早く上げるために、松下電器は今日から再び開業する、という心構えで経営に当たりたい。新規開業の気持ちがあれば、必ず謙虚さと熱心さが生まれてくる。ここに、松下電器の伝統の良さがよみがえってくる

さらに、こう続けます。 

直ちにアメリカを視察する。世界で最も先進的な経営手法を学び、合理的な方策を確立することが重要だ。輸出可能な製品や導入すべき技術についても、見極めてくる。大きな収穫を持ち帰れると信じ、期待を胸に出発したい」

旅行も英語も苦手な幸之助の突然の発表に、社員は一様に驚きました。

※1:第二次世界大戦後、松下電器はGHQ(連合国軍総司令部)から財閥と見なされ、資産凍結などの厳しい制限を受け、解体の危機に直面した。幸之助自身も公職追放令で退陣を迫られたが、粘り強い交渉と、労働組合や取引先の陳情の結果、免れた。

※2:現在のパナソニック ホールディングス。

アメリカで受けた衝撃

ニューヨークの街角に立つ幸之助

ニューヨークの街角に立つ幸之助

1月25日、幸之助はニューヨークに到着。そこで目にしたのは、日本とはまるで異なる光景でした。見るもの聞くもの全てが、幸之助の心を揺さぶります

1カ月の滞在予定を3カ月に延長し、行く先々から日本へ書き送った16通の手紙は、社内新聞に「アメリカ通信」として掲載されました。そこには、幸之助の多岐にわたる課題認識が示されています。

  • 家庭電化が徹底している。日本も進めて生活を改善しなくてはならない
  • アメリカに製品を輸出する際は、ブランドの確立が必要だ
  • 松下電器の再構築は、ニューヨークを中心にしなければならない
  • 週に二日休む働き方は、今後の経営に大きく役立つと考えられる
  • 婦人の社会進出が著しい。日本も女性が活躍できる社会にしたい
  • アメリカに学べば、日本の未来は素晴らしく良くなる

そして、最後の手紙でこう呼びかけます。

来たるべき時代を誰がつくるか。それは、われわれ日本人自身でなければならない。その意気で本年は大いにやろう

学ぶ心で、未来をつくる

初めての海外視察で幸之助が痛感したのは、社会の繁栄に映し出される日米の差、エレクトロニクス分野における圧倒的な技術の格差でした。「アメリカから学ぶべきことは多い」という確信は、1951年のデザイン部門の設置(※3)、1952年のフィリップス社との技術提携(※4)、1959年のアメリカ松下電器の設立、1965年の週5日制の実施へとつながっていきます。

「松下電器が先頭に立ち、一日も早く、日本のくらしを豊かにしたい」という志を立て、アメリカで得た多くの学びを、先見の明をもって、次々と経営に取り入れていったのです

※3:「デザインは商品価値を高める有効な手段である」と認識し、当時の日本にはほとんどなかった企業内デザイン組織(製品意匠課)を設置した。 

※4:後に「技術提携をしたのは、松下電器の発展のためでも、松下幸之助の名前を世間に広めるためでもない。一日も早く、日本のエレクトロニクス工業を世界の水準にもっていきたい、という一念からのことだ」と語っている。

現在のグループブランド「Panasonic」は、1955年、輸出用スピーカーの愛称として「PanaSonic」を使用したことが原点   (左)最初に使用したアメリカ向け「ダブルコーンHi-Fiスピーカー(写真はレプリカ)」 (右)当時の雑誌広告

現在のグループブランド「Panasonic」は、1955年、輸出用スピーカーの愛称として「PanaSonic」を使用したことが原点 

(左)最初に使用したアメリカ向け「ダブルコーンHi-Fiスピーカー(写真はレプリカ)」 (右)当時の雑誌広告

「学ぶ心さえあれば、万物すべてこれ、わが師である」と語った幸之助。初めての海外視察から30年後の1981年1月、86歳にして「もういっぺん、アメリカを振り出しにやってみたい」と1年間の転勤計画を発表し、社員を再び驚かせました。周囲に反対されて実現しませんでしたが、主治医を伴って2週間の渡米を果たします。これが、幸之助にとって最後の海外視察となりました。

Related Articles

記事の内容は発表時のものです。
商品の販売終了や、組織の変更などにより、最新の情報と異なる場合がありますので、ご了承ください。

Panasonic Stories へ

注目ニュース

同シリーズの記事