歴史資料にまつわる創業者・松下幸之助のエピソードを紹介する「歴史ものがたり」。
第3回は、86歳にして米国への転勤計画を発表した幸之助の情熱と、社員を奮い立たせたリーダーシップを、その言葉と共に紹介します。
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歴史資料にまつわる創業者・松下幸之助のエピソードを紹介する「歴史ものがたり」。
第3回は、86歳にして米国への転勤計画を発表した幸之助の情熱と、社員を奮い立たせたリーダーシップを、その言葉と共に紹介します。
米国・ニューヨークのタイムズ・スクエアを歩く幸之助。その背後には、天気予報付きのパナソニックの大看板が(1981年11月)。
松下グループ(現在のパナソニックグループ)は1981年5月、エレクトロニクスによる日米の友好親善のため、シカゴのマコーミック・プレイス*1で「米国・松下電器展」を開催(5月31日〜6月3日)。グループにとって米国で初めての総合技術展で、夏季CES*2と同じ時期に、同じ場所で行われました。約190点の新製品や新技術が展示され、4日間で約2万人が来場する盛況ぶり。しかし、グループの海外事業史に名を刻むこの技術展に、幸之助の姿はありませんでした。
*1:北米最大のコンベンションセンター。今も自動車ショーなどの大規模なトレードショーや会議が毎年開催されている。
*2:毎年1月に米国・ラスベガスで開催される世界最大級のテクノロジー見本市。1978年から1994年までは年2回、1月にラスベガスで「冬季CES」、6月にシカゴで「夏季CES」として開催された。
技術展の約5カ月前、1981年1月の経営方針発表会で幸之助は、米国への強い思いと決意を表明します。「5月5日の創業命知第50年*3式典が終わったら、すぐにアメリカに渡り、1年間勤務したい。本当に役に立つ仕事ができるかどうかは、やってみないと分からないが、やってみようと思う。アメリカを中心に、もっと力強い仕事ができないか、究めてきたい。元旦に心に決め、4日に伊勢神宮へ"ご加護がありますように"とお願いに参った。もういっぺん、青春の気持ちと創業の理念に立ち返り、アメリカを振り出しにやってみたい」と、86歳にして米国への転勤計画を発表したのです。
*3:幸之助は1932年5月5日、大阪の中央電気倶楽部に幹部全員を集め、「松下電器の真の使命は、生産に次ぐ生産によって物資を無尽蔵にし、楽土を築くことにある」と、会社が果たすべき使命を明示し、5月5日を創業記念日に定め、1932年を“創業命知第1年”とした。
米国・松下電器展のテープカットを行う米商務省局長のジェラルド・マークス氏(左/当時)と松下電器(現在のパナソニック ホールディングス)社長の山下俊彦(当時)。
突然の発表に周囲は驚き、高齢による万が一を心配して強く反対しました。仕方なく幸之助は転勤を秋に延期しますが、反対の声は日に日に強くなり、8月には中止を発表せざるを得ませんでした。しかし、幸之助の意欲は衰えず、87歳を迎える11月*4、主治医を帯同し、2週間の渡米を決行したのです(11月12日〜25日)。
*4:幸之助は1894年11月27日、和歌山県に生まれた。
その頃、米国はインフレと高失業率による長い不況にあえいでいました。幸之助は、ニューヨークにあるアメリカ松下電器の本社(当時)に全米幹部100人強を集め、「アメリカ松下電器は松下電器の子会社であり、日本の会社というイメージがあるが、それでいいと私は考えていない。この会社はアメリカの会社であり、今後、アメリカの資本とアメリカ人による真のアメリカの会社にしていく。近い将来、アメリカ人の10分の1が株主になるくらいの会社にしたい。その暁には、皆さんは幹部として大株主になるのや。国家や国民のために会社を発展させ、やがては技術開発でも日本や世界をリードするようになってほしい」と激励。希望にあふれた会社の未来像を語ったのです。休日にもかかわらず、130人余りの一般社員までが「コウノスケの話を聞きたい」と出社し、食堂でビデオ中継を視聴しました。
全米幹部との対話集会で幸之助は、「アメリカ松下電器はアメリカの会社」と強調した。
対話集会の開催を聞きつけ、休日を返上して話を聞きに集まった一般社員と握手する幸之助。
米国から帰国してわずか2日後、幸之助は「やりたいことが山ほどあり、年を取っている暇はない」と、元気な姿で記者会見に臨んだ。
帰国後すぐ、1982年1月の経営方針発表会で幸之助は、「今回の渡米で、松下電器が全世界に飛躍することは可能であると感じた。産業人としての真の使命を全員が自覚し、強い使命感と信念を持って正しいことを行えば、どの国へ行っても必ず成功すると、確信したわけや。それを妨げているのは誰かと言えば、案外、従業員ではなく、われわれ経営幹部ではないか。責任は従業員ではなく、経営者にある。従って今年は、もういっぺん、これまでの50年間を振り返り、反省すべきは反省し、その教訓を得て、次の50年間の経営方針を発表したい」と、長時間にわたり、経営幹部の自覚と奮起を促しました。
高齢にもかかわらず渡米を果たし、「われ何をなすべきか」を切々と訴える幸之助、その姿に心を突き動かされ、全員が決意を新たにしたのです。
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