鼓膜を使わず音を骨の振動で脳に伝達する骨伝導技術。この技術が未来の労働環境を劇的に変える救世主になるかもしれない。特殊な騒がしい作業現場でも、骨伝導マイクで騒音をカットし、スムーズかつ安全なやりとりを実現。さらには技術力のノウハウ継承やオフィスの働き方改革にも貢献するという。骨伝導が切り開く未来の姿を追った。
想像を超える90デシベルの騒音下で働く人たち
音の大きさはdB(デシベル)で表記する。通常の会話は60デシベル、地下鉄や電車の車内は80デシベルとされるが、90デシベルとはどの程度かご存知だろうか。その答えは騒々しい工場の中、カラオケの店内客席中央、正面5メートルからの犬の鳴き声。すなわち、極めてうるさい騒音環境なのである。
世の中には90デシベル付近、あるいはそれを超える環境下で働く人たちも少なからずいる。例えば鍛造やプレス加工を行う自動車工場、重機が作業する建設現場、土木工事の現場などでは、日々大きな騒音にさらされながらの作業を強いられる。
これら現場の音声コミュニケーションにはトランシーバー、PHS、携帯電話といったさまざまな通信機器が利用されるが、耳栓をしなくてはならないほどの環境で明瞭な会話は望むべくもない。モノづくりやインフラ整備の最前線での作業だけに、音声によるやり取りは重要になってくる。指示が間違って伝わると工程に支障が出るばかりか、最悪の場合は事故にもつながりかねない。
より安全かつ効率的に"音"を伝達する手段がほしい――こうした現場のニーズを丹念に拾い集め、パナソニック コネクティッドソリューションズ社 イノベーションセンター(以下イノベーションセンター)では厳しい作業現場での利用に耐えうる骨伝導ヘッドセットを商品化した。そしていま、企業の現場作業でフル活用されている。
民生オーディオのノウハウを活かし、業界初の画期的な製品が誕生
骨伝導とは、鼓膜を使わず振動によって音を脳に直接伝える技術だ。パナソニックが民生オーディオ分野で培った技術を発展させ、耳近傍の側頭部と首を通じて「聞く・話す」を可能にしたのがこの業界初の骨伝導ヘッドセットである。高帯域まで振動伝達する骨伝導ヘッドホンと、指向特性に優れたSN比(信号と雑音の比率)の高い指向性マイク/骨伝導マイクによってクリアな音質を実現している。
オーディオアンプ内蔵のUSB端子を持つアンプケーブルによって、スマートフォン(スマホ)やタブレットなどの接続デバイスから電源を供給できる。これにより、従来の骨伝導ヘッドホンで必要だったバッテリーを不要とした。これは現場でバッテリー切れになって使えず、業務がストップしては意味がないとの思いから実装したものだ。
最大の特長が、1つのユニットで指向性マイクと骨伝導マイクを切り替えられるようにしたこと。この機構は業務用骨伝導ヘッドセット分野では世界初となる(2018年9月時点、パナソニック調べ)。骨伝導マイクはネックリングタイプで、首に直接当てて声帯の振動を拾い、騒音をカットして声を伝えられる。トランシーバーと同様のPTT(Push To Talk)方式となっており、話す際にボタンを押せばいいので普段は首に引っ掛けた状態にしておき、ストレスフリーで作業できるのも利点だ。
重さはわずか53グラム、IPX5相当の防水仕様とすることで雨天時の屋外でも作業が可能。ヘッドバンドは耳介の下から後頭部に回すイヤーフックとL字フレームデザインを採用するなど、さまざまな点で使用時に負担をかけない構造となっている。そうした作り込みが評価され、2017年度グッドデザイン賞を受賞した。
目安として90デシベルまでは指向性マイクを、90デシベルより上の環境では骨伝導マイクを利用するが、それ以外にも骨伝導マイクのニーズはある。パナソニックの中尾 克氏は「例えばトンネル工事の現場では、ヘルメット、防護メガネ、粉塵対策用のマスクとフル装備で作業するケースがあります。そうなると口がふさがれるので指向性マイクは使えません。そんなときは骨伝導マイクが最適なのです」と説明する。
まるでスタートアップ、俊敏に顧客からの要望を反映
開発を手がけたイノベーションセンターは各事業部から独立した存在として2015年に開設し、画像、音声、無線、デバイスなどの技術開発を行っている。さらに普段は社内の奥にいる技術者がお客様と向き合うビジネスの最前線に赴き、お客様の困りごとを解決するためのソリューションをお客様と共に創り上げていく「共創」をミッションとする。
骨伝導ヘッドセットも共創からスタートした。イノベーションセンターの技術交流会にトヨタ自動車を招き、多彩な技術を紹介する中で「もしかしたら騒々しい工場の現場で使えるのではないか」と意見交換を行い、その発想に至ったのが始まりだ。中尾氏は、当時の様子をこう振り返る。
「工場の現場に足を運んでみると非常に騒音が大きく、トランシーバーでのグループ通話にも支障が出る状態でした。業務連絡は必須ですし、プレス・鍛造工程では難聴防止のために耳栓着用が必要で、会話自体が困難な状況。だからこそ骨伝導技術が生きると確信しました。我々の技術で現場の業務改革に貢献したい、その思いが開発の大きなモチベーションになったのです」(中尾氏)
実際のプロジェクトは予想以上に難航した。実証試験の間は人手も予算も不足する中で進めなくてはならず、試作過程も紆余曲折を経た。2015年からトヨタ自動車との実証試験が始まり、翌2016年には量産開発の取り組みに着手したものの、キーデバイスのディスコンや企画見直しのために中断を余儀なくされ、新たなキーデバイス開発と設計仕様変更でじつに9カ月を要した。
2017年には改めて量産開発の取り組みを再開したが、今回のコアメンバーは量産経験が少ないというデメリットがあった。そこでイノベーションセンターの各部門がお互いにサポートし合うプロジェクト体制へと移行。発売にこぎつけたのは2018年のことだ。社内メンバーの助けをもらいながら降りかかる課題を解決しつつ、一方ではベンチャー企業のように何から何まで自分たちでこなす。およそ大企業らしからぬ"泥臭い"姿勢で、業界初の商品を作りあげたのだ。
「トヨタ自動車様には5〜6回ほど試作品を持っていき、現場で働く人たちの意見をいろいろと伺いながら、要望に応じた仕様にブラッシュアップしていきました。最初はスマートなほうがいいかと思い、Bluetoothタイプを提案したんです。でもBluetoothはバッテリーも余計に消費するし、電波が途切れることもある。そこで結局、有線タイプに決定しました。多くのダメ出しもありましたし、最終的には足掛け2年間通ってようやくめどが立ったのです」(中尾氏)
何度もプロトタイプを重ねるのと並行して、民生品から業務用への転用には80数項目にも及ぶ基準をクリアしなくてはならなかった。中でも耐久性は注力した部分であり、ハードな落下試験や振動試験を繰り返した。ネックバンドには形状記憶合金が使われている。反り返っても壊れずに元に戻る仕組みだ。
同社の小林 一大氏は、「アプローチそのものがスタートアップ的な新しいチャレンジでした。商品の企画ありきではなく、お客様と共創しながら作り上げた自信作です。技術者自身が課題を直接聞いて解決の手立てを考えるのですから、確実に解決に近づきますし、時間も短縮できるわけです」と、その取り組み自体に手応えを感じている。
隠された"音のレシピ"、それこそがモノづくりの矜持
制作チームの一員である田坂 啓氏は、もともと映像部門でシースルーのヘッドマウントディスプレイ(HMD)を手がけていた。途中からプロジェクトに加わった田坂氏は「最初に骨伝導の音を聞いて、ここまで音のヌケが良く、声の輪郭がはっきりと聞こえることに感銘を受けました」と話す。
パナソニックには長年の伝統で受け継がれてきた"音のレシピ"があるのだという。「その音のレシピがもとになって民生品を開発してきました。今回も、レシピをわかっている担当者が携わったからこそ、クリアな音声コミュニケーションが可能になったのです」(田坂氏)。
レシピをもとに音作りを手がけたのは、この道一筋のベテランである国本 浩氏だ。国本氏は「とにかく聞きながら改良を重ねていく。地道なトライの繰り返しです」と謙遜するが、中尾氏は「音作りには確実に経験値が反映されます。日本のモノづくり、パナソニックの総合力と知見が現れた部分です」と高く評価する。
現在はトヨタ自動車に続き、東京メトロでも骨伝導ヘッドセットが採用された。その東京メトロでは数名のチームによる線路の点検作業で利用している。耳をふさがないため列車の接近音や作業員同士の会話も聞くことができ、とりわけ安全面での安心感が増した。
骨伝導ヘッドセットの利用範囲は、現場作業だけにとどまらない。テレワーク推進が盛んな現在、在宅で育児中の社員にとっては利便性が高まると見ている。なぜなら小さな子どもの声を聞き、様子をケアしながら会社とコミュニケーションが取れるからだ。試験的に育児中の社員にモニターしてもらったところ、前向きな意見が多かったという。
それ以外に可能性を感じさせるのが、音声入力による活用法だ。小林氏はさまざまな業界の声を聞く中で、次のようなトレンドを実感している。
「いま作業現場では音声認識によってエビデンス(証言)を残すニーズが増えてきています。そのエビデンスをもとに熟練者の技術を新人に継承するのです。背景には現場の深刻な人材不足があります。音声入力ならそのままデジタルデータ化できますし、我々の指向性マイクは認識率が高く好評です。キーボードの文字入力に比べて音声入力はこれまでの手入力に比べて時間短縮もでき、工数削減にもつながるのもメリットです」(小林氏)
また鼓膜を使わずに済む骨伝導ヘッドセットは加齢とともに聴力が弱くなりがちな高齢者にも優しく、これからの日本社会にとって欠かせないデバイスになる可能性も秘める。中尾氏は「今後も人びとの暮らしを豊かにするデバイスを生み出していきたいですね」と目指す未来を話してくれた。
(ライター:小口正貴(スプール))
「未来コトハジメ」 - 日経ビジネスオンラインSpecialにて、2019年2月19日(火)公開