82年前の1934年4月3日、松下電器は店員養成所を開所した。ここで小学校を卒業したばかりの少年たちが、実務の基本や電気製品の基礎知識、社会人に必要な心構えなどを3年かけて学び、卒業後は即戦力として活躍した。
(写真:授業を受ける店員養成所・第一期生の少年たち)
1922年、当社が大阪・大開町に最初の本店と工場を建設した頃のことである。事業がやや緒につき、「よき人を求めたい、育てたい」と考えるようになっていた松下幸之助は、主治医で、よき相談相手でもあった木庭永助氏に、「近い将来、事業を経営しつつ人物を養成し、人物を養成しつつ事業を行うような、物の生産と教育とが同時に行えるような工場経営というか、学校経営というか、二つを一つの事業として、これを実現してみたい」という夢を語っていた。
それから12年後、幸之助は夢を実現する。1934年、新しく本店と工場群を建設した大阪・門真に「店員養成所」を開設したのだ。そのとき配布された冊子には、念願の店員養成所を開所した幸之助が、高い志のもと期待に胸を膨らませて青少年の教育に取り組んだ様子が記されている。
実社会における事業の経営は決して学識のみによって完全に成し遂げ得るものではなく、感受性極めて強き少年時代における精神的薫陶に基づく実際教育により、その経営才能を培い人材の完成を期することこそ緊要であろうと信じます。従って常に信念に生きる人たるべく指導し、経営の興廃を双肩に担いて堂々産業界の第一線に立ちて力闘し得る人材の養成が唯に本所にとり極めて緊要事たるのみならず、ひいてはこれが我が国産業人の育成に対する貢献の一端ともなるものと信じます。
店員養成所は、小学校卒業者を対象に、3年間で旧制中等学校5年間の商業・工業両課程修了と同程度の学力をつけるとともに、人間的な修練を加え、卒業後すぐに現場で働ける店員を養成することを目的に設立された。300坪の土地を使い、建設には当時の年間売上高の4%に相当する15万円の費用がかけられた。当社にとって大きな負担であったが、松下幸之助は当時の自らの思いを、「遠い将来に対する崇高な使命の遂行という、真に実力的な発展を期待するならば、これくらいの負担を惜しんではならないと、固く決意したのである」と後に語っている。
こうして活動を始めた店員養成所で、幸之助は少なくとも週1回は自ら講義を行い、少年たちにものの考え方や人生観を優しく説き語った。さらに3年後の1937年には、技能者育成に特化した「工員養成所」を併設した。このように「人づくり」の環境を急速に充実させた背景には、業績の急拡大とそれに伴う人員の急増があった。増え続ける従業員を正しく指導育成し、一人ひとりの能力を存分に発揮させ、戦力とすることは、会社にとって最重要事項の一つであったからだ。
第一期卒業生から九州松下電器で社長を務めた青沼博二氏を輩出するなど、店員養成所は松下電器の発展を支えた経営幹部を数多く育成した。ある卒業生は、卒業式での松下幸之助による訓話を次のように紹介している。
創業者は、私たちの卒業時にこんなお話をされました。
「君たちは、本来、ここを卒業して松下電器に入ってもらわないかん。しかし、私は、松下電器に入ることを決して強制しない。ここを卒業してほかの学校へ行きたい人は行きなさい。他の会社に行きたいと考える人があるなら、それでも結構です。それらのことは皆さん方の自由です。しかし、皆さんが望まれるのなら、松下電器に入社していただきましょう」
ご自分が心を込めて育成され、また多くの投資をされながら、卒業生が他に去るのを止めない。それは、たとえ他の学校に行こうと、あるいは他の会社に転じようとも、創業者ご自身の志というものは決して無駄にはならない。志を受け継いだ人間がそこでそれなりの働きをしてくれれば、それは必ず世の中のプラスになるに違いない。そういう強い信念を持っておられたからだと思うのです。
(2008年 松下幸之助歴史館 創業90周年特別展「企業は何のためにあるのか」より)
店員養成所を開設した頃の松下電器では、従業員の心を一つにしようと、さまざまな行事が活発に行われた。
時代の変化に合わせてその役割や形を変化させつつ、店員養成所は当社における「人づくり」の重要な役割を担ってきた。2009年、ベトナムと中国にそれぞれ開設された「ものづくり大学校」「製造技術学院」はその一例だ。現代のパナソニックにあっても、松下幸之助の「人づくり」への志を受け継ぐことで、さらなる企業としての発展を目指している。
※ 本コンテンツに記載の肩書きや組織名は当時のものです。