歴史資料にまつわる創業者・松下幸之助のエピソードを紹介するコーナー「歴史ものがたり」。
第1回は、幸之助が子どもの頃から縁が深く、後年に心のふるさとと語った「自転車」を紹介します。
シリーズ:
歴史資料にまつわる創業者・松下幸之助のエピソードを紹介するコーナー「歴史ものがたり」。
第1回は、幸之助が子どもの頃から縁が深く、後年に心のふるさとと語った「自転車」を紹介します。
幸之助は9歳の時に故郷の和歌山を離れ、大阪にでっち奉公に出ます。1905年からの5年余り、五代自転車商会で多感な少年時代を過ごしました。
ある日、近くの問屋から「自転車、見せてんか」と電話があり、親方に言われて見せにいくことに。小僧ながら売りたい一心で熱心に説明し、「買うてやるわ、1割引いとき」と言われて承知します。
ところが、帰って伝えると、「一度にそない引いたらあかん。5分引きから、それが商売いうもんや。もういっぺん行ってこい」と叱られます。いまさらそんなと、悲しくなって泣き出す幸之助…。
しばらくして、問屋の番頭さんが「遅いな、どないしたんや」と訪ねてきます。すると、そこには1割引いてと涙する幸之助が。様子を聞いた問屋のご主人は、その熱意あふれる姿に感動し、「分かった。5分引きでええわ」となりました。幸之助が自転車を届けにいくと、「おまえが五代にいる限り、自転車は五代で買うてやる」とまで言ってくれたのです。
大いに面目を施したこの出来事を、幸之助は後年に「今でもよく覚えている。商売で価格以上に大事なのは、熱意から生まれるさまざまな姿ではなかろうか」と語っています。
1918年に松下電器(現・パナソニックグループ)を創業した幸之助は、その後も自転車に特別な思いを抱き、関連事業を展開します。
戦争で中断したものの、1951年には自転車業界への復帰を宣言。「自転車に育てられたので、心のふるさとであるこの業界を忘れられずにいた。いまここに復帰を宣言できた喜びは、全てを表せないほどだ。久しぶりに青空を見るような伸び伸びした気分」と高鳴る思いを語りました。
ナショナル自転車の誕生を強く後押しすることになった出会いを振り返り、「私の思いを聞いた東京部品工業の栗橋竹治社長から、業界と松下電器の繫栄を願ってと、自転車全般に関する“ナショナル”の商標を贈っていただいた。この幸運に決心を一層強くしている。期待に必ず応えると約束する。共存共栄の理念の下、優良品の提供と適正価格の維持で、業界の安定と繁栄に尽くしたい」と決意を表明したのです。
翌1952年、念願だった自転車の製造に乗り出した幸之助。ナショナル自転車第1号の一つ、「輪栄号」に入れられたナショナルのロゴは、実に101カ所にも及びます。商人としての第一歩を自転車店から踏み出した幸之助にとって、それほど思い入れの強い商品でした。
記事の内容は公開時のものです。
商品の販売終了や、組織の変更等により、最新の情報と異なる場合がありますのでご了承ください。
シリーズ記事
おすすめ記事