65年前の1951年1月18日、初の海外視察に向かう松下幸之助を乗せたパンアメリカン航空機が羽田を飛び立った。目指すはアメリカ。戦後の苦境を脱するや、直ちに世界に目を向けたのだ。
(写真:タラップから見送りの人々に帽子を打ち振る松下幸之助。羽田空港にて)
「嵐がふきすさぶ中に、松下電器はいよいよ立ち上がった」-1950年7月17日の臨時経営方針発表会でこのように宣言してから半年、松下幸之助は翌年1月6日に開催された1951年度経営方針発表会で、「終戦後の苦難を経て、われわれの視野は世界に開かれるようになった。日本人として是非の判断を下していたのが、世界人としての立場を思慮するようになった」と切り出すと、次のように続けた。
「いままで、狭い視野の下に働いていたわれわれは、いまや、世界の経済人として、日本の良さを生かしつつ世界的な経済活動をしなければならない。われわれは世界人類の一員であるという自覚の下に、わが社の経営を再検討したいと期しているのであるが、この気持ちに徹し、その成果を早くあげるために、『松下電器は今日から再び開業する』という心構えで経営に当たりたい」
こうした所信を述べた上で、「早速アメリカを視察する」と表明したのである。目的は、海外に何を輸出できるか、海外の技術を導入する必要があるか、経営について海外に学ぶべきことは何か、これらを自分の目で確かめることにあった。
経営方針発表会終了後、本社では「社長渡米歓送会」が催され、意気上がる雰囲気の中、幸之助は「世界市場に雄飛することを誓い合った本年こそ、繁栄への合理的方策を確立することが極めて必要であり、この点については大きな収穫を持って帰れると期待して出発したい」と、力強く抱負を語った。
4日後の1月10日、幸之助は大阪駅で盛大な見送りを受け、まず東京へ。そして出国当日の1月18日午後、東京支店でも壮行会が行われ、かねて親交のあった同郷の大先輩、野村吉三郎元駐米大使(注)が激励の辞を送った。歓呼渦巻く中、支店を後に羽田空港へ向かった創業者は、午後6時、離陸を待つパンナム・クリッパー号のタラップを上った。
ウェーク島、ホノルルを経由してアメリカ本土に到着。1カ月の滞在予定を延長して4月7日に帰国するまで、行く先々から所感を日本に書き送り、それが『アメリカ通信』と題されて社内新聞に載った。その視点は事業関連にとどまらず、「公徳心にはまったく感銘」「眼につく婦人の活躍ぶり」「青年社員は英語の勉強を」と多岐にわたった。
およそ3カ月におよんだアメリカ視察で幸之助が実感したのは、社会の繁栄にみる日米の格差であった。エレクトロニクスをめぐる技術の差も明らかで、「海外先進企業に学ぶ点多し」との想定は確信に変わった。それが、翌1952年のフィリップス社との技術提携につながっていくのである。
(注)後に、松下幸之助によって日本ビクター社長に抜てきされた。