80年前の1935年12月15日は、松下電器製作所が株式会社化と同時に「分社制」を採用し、事業部門別9社の子会社を傘下に設立した日。
(写真:1933年の松下幸之助。前列左から2人目)
個人経営の時代から、松下幸之助は「会社は社会からの預かりもの」と考え、経営を進めてきた。1935年12月、分社制によって松下電器産業株式会社の「社主」となった幸之助は、全社員にあてたメッセージの中で、改組の理由を次のように述べている。
世間では往々にして資本を他に求めるとか、人材を他から求めるための必要性から株式会社組織にするのを見受けるが、わが社の場合は、これらとは全然異なっております。
今日の松下電器は業容も相当大きくなり、人員も増加して、考え方によっては、社会の一大生産機関としての実態をなしていると思われます。従って、今後ますますこの生産機関を拡充する責務が痛感され、同時に、経営の実情を公開して世間に発表できるようにすることが公明正大の精神に合致するのであり、ここに今回の組織変更の第一の理由があります。
今日から、わが社は株式会社としての経営に移るのですが、経営方針も従来となんら異なるところはなく、依然として、みなお互いに心を合わせて、ますます産業報国の実をあげたいと念ずる外ないのです。
改組により、松下電器産業株式会社(産業本社)は持株会社となり、特に人事面・経理面で各分社を管理。一方、各分社は自主責任経営をより徹底した。この株式会社化をスムーズに進めることができたのは、その2年前の1933年から、事業部制をスタートしていたことによる。
1933年5月、松下幸之助は、事業を製品分野別の責任経営にすることを決定し、工場群を3つの「事業部」に分割。ラジオ部門を第一事業部、ランプ・乾電池部門を第二事業部、配線器具・合成樹脂・電熱器部門は第三事業部とした。
第一事業部は、当初から生産と共に販売も担当したが、翌年の2月には全ての事業部が生産と販売の両方を担当するようになった。また、電熱器部門が第三事業部から独立し、第四事業部として活動を開始した。この機構改革によって、各事業部が工場と出張所を傘下に持ち、製品の開発から生産・販売、収支までを一貫して担当する独立採算の事業体となったのだ。
幸之助は事業部制の意味について、その原型となった1927年の電熱部創設時を振り返り、次のように話している。
私が小規模でやっていたときは、私だけの支配でこと足りた。しかし、さらに新しい仕事ができてくるとなると、私自身も一人では、どれもこれも、よくわかるということはできない。にもかかわらず、それを一つ一つ私が見なければならないとなると、ある場合には「君ちょっと待ってくれ。いま私は別のことを考えているんだ」ということになる。これでは、やはりいかんという感じがしたのである。
そこで電熱器も、だれかに担当してもらおうと思った。さて、担当してもらうにあたって、私はちょっと考えた。同じ担当してもらうなら、いっさいの責任をその人に持ってもらおうと考え、「松下では、やはり電熱器を作らないといかんから作りたいのだけれども、僕はようやらない。君やってくれ」ということで、いっさいを任せた。この「君やってくれ」というときに、その人を事業の最高責任者にしたわけである。業容は小さくても、全部を任すということである。これが松下電器の事業部制の始まりである。
事業部の責任者は、任された事業分野で創意と能力を大いに発揮した。各事業部で自主的かつ熱意あふれる事業活動が盛んになるとともに、当時はまだ個人経営の中小企業の規模にあった松下電器が、多くの新しい事業分野で成果を上げられるようになっていった。また、独立採算経営によって、各事業部が実力以上の拡張に走ることは自然に制約され、積極経営ながら堅実な採算を確保することができた。
つまり、事業分野を限定し、生産と販売を直結することによって、事業部は小規模企業の長所である「市場の動きに即応した機動的な活動」を失わず、かつ、各事業場の集合体として大企業に成長する体制を整えることができたのだ。
事業部制は、松下幸之助が会社経営を始めて間もない頃から、「事業を伸ばし、人を育てる」ために、新入社員であっても機密の仕事を任せたやり方に、その萌芽を見ることができる。任せるのは当時の必要から生まれたやり方でもあったが、意識的に行われることによって、組織戦略にまで発展した。その狙いを、幸之助は次のように説明している。
事業部を作ってやることによって、成果がはっきりわかってくる。責任経営になってくる。だから事業部制そのものも、はっきり良しあしが検討される。こっちの事業部で儲かったからといって、この利益をほかの事業部に持って行くということは絶対にしない。事業部自体で利益を上げなくてはならない。
こういうことから何が生まれてきたかというと、早くいえば経営者がうまれてくる。要するに、経営の本当の試練の場である。幸いにして、松下電器では早くからこれをやったから、みな経営者として育ったわけである。