今から111年前の1904年11月23日、故郷和歌山を後にした松下幸之助は、大阪難波の駅に降り立ち、最初の奉公先、八幡筋の宮田火鉢店に向かった。終生一商人であり続けることを追求した幸之助が商いの道を歩み始めた日、それが、この日であった。
(写真:松下幸之助10歳。五代自転車店の奥様と)
この日に幕が切って落とされた奉公は、まず宮田火鉢店で翌年2月まで、その後、船場の五代自転車店で1910年6月までと、足かけ7年におよんだ。
年齢でいうと9歳から15歳まで。少年期を終え、確たる人格が形成されていくこの時期に、松下幸之助は、商人とはいかにあるべきかを、理屈ではなく身体で覚え込んでいった。それを、次のように振り返っている。
「当時、船場といえば、船場大学といっていいほどで、船場で奉公し商売を見習うということは、世間一般には商売人として一人前のコースをとることだと考えられていました。それだけひじょうにきびしいものがあったわけです。私が今日あるのは、やはり一面ではこの奉公時代の七年間に、商売のしつけといいますか、商売道を知らず知らずのうちにも体得したおかげであるといってよいような感じがします」 『大阪の百人』(1968年発行)「きびしくなつかしい奉公時代」より抜粋
特に、5年余り奉公した五代自転車店の主人、五代音吉氏に、商人かくあるべしという、一つの理想像を見出していたように思われる。『仕事の夢 暮しの夢』と題する著書では、「この人の商売のしかたを見ていると、ひじょうに優れた一つの持ち味を持っている」と五代氏の姿を具体的に語っている。
即ち、お客様とはもっぱら値引きを迫るものであるが、それに対して五代氏は、「これ以上は絶対まかりません。私はこれをひじょうに勉強して値段をつけてある。これをまければ私は利益がなくなる。利益なくして販売するということはよういたしません。それは長くつづきませんし、サービスもできません」と、厳格な信念を貫いたという。
その一方で、「お得意に対してはひじょうに感謝の念を持って、何かあればかけつけてお手伝いするというようなことは、商売人として当然しなければならんものだという考えを持っておった。だから、たえずお得意のために奉公するという態勢をとっていた」という五代氏であった。
それから時は流れ、松下電器の株式会社化を翌月に控えた1935年11月、松下幸之助は「基本内規」つまり、会社の基本的なルールを制定した。そして、第15条として「松下電器ガ将来如何ニ大ヲナストモ、常ニ一商人ナリトノ観念ヲ忘レズ、従業員又其ノ店員タル事ヲ自覚シテ、質実謙譲ヲ旨トシテ業務ニ処スル事」と記した。その要となる「一商人ナリトノ観念」が、ここで紹介した船場での体験に根ざすのはいうまでもない。
その後も幸之助は、折に触れ機に臨んで、「商売人であることを忘れていないか」と従業員に問い、警鐘を鳴らし続けた。例えば、1964年の「熱海会談」を経て、事業部の自主責任経営を強化し、新販売制度に打って出る際にも、「商売人であること」がひときわ強調されている。
パナソニックの社長である津賀一宏は、ある年の入社式で、「最近、特に考えさせられた創業者の言葉」として「一商人ナリトノ観念ヲ忘レズ」を紹介し、「パナソニックのルーツであるこの言葉を、皆で考えていきたい。これは、営業・マーケティング、開発技術、スタッフなど、どの立場にも求められることだ」と述べた。現代のパナソニックにおいても、従業員の一人ひとりが、それぞれの立場で「一商人ナリトノ観念」を解釈、追求し、日々の仕事に結びつけていこうとしている。