「21世紀は日本や中国などアジアの時代」と予言していた松下幸之助。中国におけるパナソニック発展の歴史は、37年前の1978年10月28日、中国の鄧小平副首相がテレビ事業部を訪問したことに端を発する。
写真は1979年6月、万里の長城に立つ松下幸之助 。
1978年10月、「日中平和友好条約批准」のため訪日した鄧小平副首相は、当社の茨木テレビ事業部を訪問。「松下さん、あなたは日本で経営の神様と言われています。中国の近代化を手伝ってくれませんか」と呼び掛けた。これに対して幸之助は、「できる限り中国の近代化に協力させていただきます」と、即座に答えた。この瞬間、「中国国民の生活向上に貢献する」ことを目指した、松下電器の中国事業が始まった。
鄧小平氏の招聘により、松下幸之助は1979年と1980年に訪中し、中国における電子工業の近代化を図るための「日中電子工業連合合弁会社 設立構想」を話し合った。ところが、日本の電子機械工業会で賛同が得られず、「それならば松下電器が単独で合弁会社をつくろう」と決意。
合弁会社の設立にあたっては、「中国で最も歓迎される業種を選定すべきである」との基本理念に基づき、輸入に頼っていたカラーテレビの基幹部品であるブラウン管を選定。数年にわたる中国当局との交渉を経て、1987年に中国における合弁会社第一号「北京・松下彩色顕像管(有)」が設立された。
生産開始に向けては、当社の経営理念である「ものをつくる前に人をつくる」との考えのもと、第一ラインを担当する250人全員が、半年間、日本で実習した。スピードも品質も日本と遜色ないレベルにまで習熟し、1989年6月、北京での生産第一号機が完成。その後、同社は飛躍的に製品の生産販売数を伸ばしていった。
1979年の訪中では、こんなエピソードもある。技術合作先の北京電視機廠を訪問した松下幸之助は、「皆さんはカラーテレビをつくることに非常に努力されている。こういう努力を続ければ、必ず数年で日本の技術に追いつき、また日本にない新しい技術を開発されることでしょう。その時には、最初に松下電器にその技術を売りに来てください」と述べて、列席した関係者を唖然とさせたという。これはリップサービスではなく、幸之助の本心であった。中国は今や世界最大の巨大市場であり、研究開発を含めて"世界の工場"であることは言うまでもないが、創業者は中国の可能性と将来性をいち早く確信していたのだ。
1990年代、当社は中国各地で次々と製造事業場を設立した。たくさんの製造事業場が個別に開発・製造・販売・アフターサービスを行うことは非効率であり、松下グループとして効率的で統一的なマーケティングや事業支援活動を行う総括会社の必要性が高まっていた。ところが、中国政府の関係者にその重要性を訴えても、「わが国は外資に対してまだ市場開放しておらず、もしそんな一会社をつくったら、利益を全て持ち出されてしまう」といった警戒論が大方の見方であった。そんな中、1993年に当時社長の森下洋一が朱鎔基副首相と会見し、原則同意の感触を得て、総括会社の設立に向けて動き出した。
1994年、森下は再度訪中。電子工業部の幹部が列席する会談で、朱鎔基副首相は、「松下電器は松下幸之助創業者をはじめとして、中国で友好的に事業展開をされ、その経営方針も中国の国情に合致しており、投資額と設立した企業数も非常に多い企業です。松下電器(中国)有限会社が、中国に設立した松下グループの他の企業と上下関係がなく、広い意味でのサービスをする会社なら、設立されて結構です」との結論を述べられた。こうして業界初の総合事業支援会社である「松下電器(中国)有限会社」(CMC、現在のパナソニックチャイナ)を設立できたのである。
CMCの設立は中国政府にとっても実験的な試みであった。1995年4月、中国の対外貿易経済合作部はより一層の外資導入を促進するため、大型多国籍企業の投資促進を図る傘型会社(持株会社)設立のガイドラインを公布。CMCの取り組みはその大きな基礎となったのだ。
その後、松下電器(中国)は2002年に独資化、2003年に地域統括会社化し、2005年にはグローバルブランド統一の方針に基づきパナソニックチャイナと改称し、現在に至っている。