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Back Stage:アビオニクス事業の誕生物語

2016年2月26日

特集

Back Stage:アビオニクス事業の誕生物語

当社成長の鍵「BtoB」をけん引するアビオ二クス事業は、どのようにして誕生したのか――。そのルーツを、事業の構想から携わり、後に、松下アビオニクスシステムズ株式会社のトップとして、さらなる発展に導いたOBの杉本幸雄さん(現Aircraft Cabin Systems 社長兼最高経営責任者)に聞いた。創始期の胸が熱くなる挑戦の日々を紹介する。

※役職、組織名称は当時のもの

(写真:1980年、機体メーカーとの開発会議。中央、制服姿の杉本さん)

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Chapter 1: 崖っぷちで生み出したペッパー・ラジオがアビオへとつなぐ

1950年代から、当社の基幹商品として販売をけん引したラジオ。しかし、1970年代になると、販売の中心はカラーテレビや冷蔵庫、エアコンなどが占めるようになった。ラジオは、当社が高い技術とデザイン力で新製品を開発しても、半年もたたずに値段の安い海外製のコピー商品が出回る。「このままでは先はない・・・」。そんな危機感を抱いたラジオ事業部が、背水の陣で開発したのは、胸ポケットに収まる世界最薄のラジオだった。

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    杉本幸雄さん
    定年後、航空機向けのモニターを開発・販売する会社を起業。現在、米国シアトル在住

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    1980年、機体メーカーの新型機(当時)に納入した、娯楽・サービスのシステム。オーディオと読書灯・アテンダントコールのユニットで構成

松下グループ内の、デバイスや部品開発を行う事業場や社外の部品メーカーとも連携して、スピーカーやバリコン、チップ部品といった小形部品などの開発に取り組んだ。その後、生産技術本部が超薄型実装技術を開発して、チップ部品の自動実装を実現。これらによって、1977年、世界最薄のラジオ「ペッパー」を生み出した。「ペッパー」は性能の良さとサイズで話題を呼び、予想を超えるヒットとなった。杉本さんはFM付きタイプの設計を担当しており、「ペッパー」のヒットを一緒に頑張ったメンバーと共に喜びあった。「皆が、『やり切った』という充実感でいっぱいでした」と杉本さん。この「ペッパー」の技術こそが、後にアビオニクス事業への参入を後押しすることになるのだ。

Chapter 2: ラジオ屋が飛行機業界に?

「ペッパー」の次はどうするのか。ラジオ事業部が考えたのは「ABC」構想だった。Aはアビオニクス(エアプレーン)、BはBookサイズの超小型コンポ、Cはカーオーディオ。ペッパー・ラジオで培ったデバイスや実装技術で、コンパクトでありながらも品質に優れた新商品で新市場を切り開こうと考えた。杉本さんは、アビオニクス担当に任命された。飛行機が大好きだったことから、とてもワクワクしたという。しかし、航空機向けのAV事業をどう進めていいのか全く分からなかった。

1979年のある日、アメリカに出張した杉本さんはアメリカ松下電器に立ち寄り、技術顧問の貞重浩一さんにアビオニクス事業への参入を相談した。自家用飛行機を持つほど飛行機好きの貞重さんは、機体メーカーに商談に行こうと言い、早速、アポイントを取った。折しも訪れた会社は、ハイテク機の開発に着手しており、アビオニクスシステムを一新しようとしていた。そして、杉本さんたちの訴求に対し、「3カ月以内に、具体的な提案を持って来られるのなら検討する」と回答した。

一方、社内では「乗客の命を預かる飛行機。私たちは、求められる信頼性に応えることができるだろうか」といった、アビオニクス事業への参入を不安視する声が大きくなっていた。しかし、杉本さんたちアビオニクスチームは意を決し、先方から手渡された、厚さ30センチほどもあるアビオニクスに関する英文資料と闘いながら、昼夜を徹して提案する商品の構想に没頭。まずは、日本語で企画書や設計図を描いて、FAXでアメリカ松下電器に送付し、それを貞重さんが翻訳することで提案の資料をまとめていった。杉本さんたちが開発したのは、オーディオと読書灯・アテンダントコールで、2200時間の飛行時間を保証するシステムだ。当時、機内の娯楽・サービスのシステムは、3時間以上の飛行に耐えることは難しく、どこかが故障するのが当たり前。当社が提案する2200時間の飛行保証は、驚くべき品質の高さだった。機体メーカーに出向きプレゼンテーションした杉本さんは、最後に「ペッパー」を取り出し、「世界最薄を実現した技術で、貴社のアビオニクスをつくります」と先方に渡して帰国した。

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1979年、機体メーカーを訪れた杉本さん(左)と貞重さん

Chapter 3: 機体メーカーを驚かせたモノづくり力

プレゼンテーションからしばらくたった1979年11月、機体メーカーから採用の一報が入った。驚きと喜びに沸くプロジェクトメンバー。当社の採用を決定付けたのは、杉本さんが渡した「ペッパー」だったという。「『ペッパー』を分解した先方の技術者が、『小さな部品とその実装が見事だ。この技術力なら間違いない』と、太鼓判を押したと聞きました。そして、『新型飛行機は今後30年間、飛び続ける。その30年後にも見劣りしないモノを採用したい』と、当社を選んでくれたと言うのです。いやあ驚きました」。こう杉本さんは当時を振り返る。

しかしながら、機体を運用するエアラインのほとんどは、「新参者がつくればさらに悪くなるのでは」といった懸念を払拭できずにいた。機体メーカーはこれに対し、松下電器が直接、主要なエアラインに出向いて説明してほしいと要望してきた。早速、杉本さんたちはデモ機を携えてエアライン各社を回った。そして、当社が提案する商品は、いかに信頼性が高く、お困り事を解決するものであるかを訴え続けた。この結果、訪問した会社全てにおいて当社商品の信頼が高まり、当社製のオーディオと読書灯・アテンダントコールからなる、乗客向け娯楽・サービスのシステムは、訴求した機体メーカーの新型機に問題なく採用されることになった。

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機体メーカーによるアビオニクス工場の品質監査

Chapter 4: 「正月早々、ええ話や」

機体メーカーとの契約調印が目前に迫ってきた。しかし、ラジオ事業部では本社の関係部門に契約の了解を得られず、誰が調印するのか決定できずにいた。「もし当社の商品が電波障害などを発生させ、それが飛行機の運航に支障を与えて事故を引き起こしたら、その賠償で松下電器はつぶれるかもしれない」。こうした大きなリスクに、どう対応していいのか分からなくなっていたのだ。この壁をどう突破すればいいのか――。事業部長も交え、プロジェクトメンバーの検討会は、連日、夜更けまで続いた。調印式が明後日に迫った日、出た結論は、山下俊彦社長(当時)への直談判だった。自宅に電話してみようとなり、杉本さんがその大役を担うことになった。ドキドキしながら受話器を握る杉本さんの耳に、社長の声が聞こえてきた。「こんな夜中に、自宅にまで電話をかけてくるとは、どうしても私に『ウン』といわせたいことがあるのやな。けど、この電話で『ウン』とは言えん。明日、出直しなさい」と、山下社長は言い放った。しかし、続けて「どうしてもやりたいことやったら、事業部のしかるべき立場の者が、その責任でやったらいい!」と言ったのだ。これを聞いたラジオ事業部事業部長の福川政夫さんは、「君たちが苦労を重ねて、ここまでにした仕事や。私には責任を取る覚悟がある」と話し、翌日、アメリカに出発、機体メーカーと調印を交わした。1980年1月14日のことだった。

調印後すぐに、技術部長の薮崎俊一さんらプロジェクトの代表者が本社に行き、2日間にわたって関係部門の各役員に事業予測などを説明。それぞれから決裁をもらった。その中で、山下社長への説明におけるやり取りを、藪崎さんは、同行したプロジェクトメンバーの一人、主任の田中清信さんにこう語ったという。「当社の商品が飛行機の運航に障害を起こした場合の対処を説明したら、山下社長は『君たちは障害を及ぼすような商品をつくるつもりか』と言われた。『いえ、そうはしません。絶対に良いものをつくります』と答えると、『それなら、そんな話はするな』と叱責されたよ」。薮崎さんの手には、山下社長印の入ったアビオニクス事業の決裁書が握られていた。

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調印式。手前右が福川事業部長

本社への説明の最後は、松下幸之助相談役(当時)に対してだった。その様子を、同席した田中さんはこう振り返る。「相談役は、私たちが持参した海外メーカーのサンプル機器を手にとって、穴が開くほどじっくり確認した後で、『うちでつくれるのか?』と尋ねました。『つくれます』と答えると『ラジオとは別の場所でつくるようにな』と指示されたのです。航空機向けと民生機器とでは、モノづくりの管理システムが全く異なることを知っておられたのですね。そして、『正月早々、ええ話や』と笑顔になりました」。報告を聞いた杉本さんらメンバーは、アビオニクス事業を認めてもらえたことに歓喜した。

ほどなく、ラジオ事業部は相談役の言葉に従って、アビオニクスの設計から製造、品質管理に至るまでを一つの組織にして、ラジオづくりとは一線を画した形で事業をスタートさせた。それから約30年の時空を超えてアビオニクス事業が見事に花開いた今、あの松下相談役の先見の明、山下社長の決断力が、さらにすごみを増して思い出されると杉本さんは振り返る。

Chapter 5: 山下社長との約束を商品に込める

アビオニクスのモノづくりは、「ペッパー」を開発した技術がベースとなった。飛行中の特殊な環境の下、劣化に対応するため材料も変更した。そして、飛行機の9年間分に相当する振動テストのほか、温度耐性も全数試験するなど、品質テストは特に入念に行った。「山下社長に約束した『自信』を商品に込めました。おかげさまで、納入したエンターテインメントシステムは、私が知る限り一度も問題を起こしたことはありません。この成功は、部品そのもの、また、つくり方そのものを根本的に変える革新的なモノづくりがあったからこそです」と杉本さんは力を込める。

こうした納入が評判を呼び、他の機体メーカーも当社の商品を採用してくれるようになった。1985年には大手3社のオーディオと読書灯からなる純正アビオニクスシステムは、ほとんどが当社製になった。

Chapter 6: 夢に向かって突き進め

1988年、次のフェーズとして、杉本さんたちはビデオモニターを取り入れて乗客一人ひとりのエンターテインメントを充実させたいと考えた。そうなると、必要となるのは表示デバイスだ。しかし、この時も、関係部門の協力をすんなり得ることはできなかった。航空業界が求める品質レベルへの対応とともに、読めない販売台数といった不安が関係部門の参入への決断を鈍らせた。そのような中、日本のあるエアラインから当社製のエンターテインメントシステムの引き合いが飛び込んできた。杉本さんは、「この商売は大きくなる」と直感したという。そこで、アビオニクス事業部の人員を直ぐに増やしたいと人事に要望した。当時、日本は定期採用入社が主流の時代、杉本さんたちの要望を日本で実現するのは困難だった。ちょうど、機体メーカーから保守・サービス体制の充実を要望されていたこともあり、それならいっそ海外の現地会社を買収しようとなった。手を尽くして調査し、ある会社の買収を決めたが、もう少しのところで買収交渉は頓挫した。

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1990年9月、松下アビオニクス・ディベロップメント株式会社創立を記念してパーティーを開催。写真右は、事務所内の様子

沈んでいた交渉担当の杉本さんに、オーディオ・ビデオ本部の東 幹男本部長から連絡が入った。「君に2つのプレゼントをやろう。1つ目は、アビオニクスの会社を君が主体となってアメリカで立ち上げること。2つ目は部長への昇格や」。こうしてできたのが、パナソニック アビオニクス株式会社の前身、1990年に設立した松下アビオニクス・ディベロップメント社だ。杉本さんは初代社長に就任し、しばらくは日本で経営の指揮を執っていたが4年後に米国に異動。そして、販売会社、松下アビオニクスシステムズとの合併による、新生、松下アビオニクスシステムズを立ち上げ、そのトップについた。

機内のエンターテインメントシステムは、杉本さんが予測した通り、モニターを座席の後ろに設置して乗客が好みのチャンネルを楽しむタイプに変わりはじめた。この波をうまく捕まえた当社のアビオニクス事業は、以降、急激な成長を遂げていく。最初に納品した機体メーカーからは、娯楽・サービス以外のシステムについても引き合いがあり、メインサプライヤーの地位を確保するまでになった。

いくつもの高い壁に阻まれ、崖っぷちに追い込まれても屈することなく突き進んだ杉本さんをはじめとするアビオニクス事業の先人たち。その支えになったものは何か―― 。杉本さんは言う。「苦しいことは山ほどありました。でも私には、こうしたいというロマンがありました。リーダーはロマンを描くことが大切です。そして、予想もしない波乱に巻き込まれても、自分のロマンを夢見て突き進む。それが事業の基本ではないでしょうか」。

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発表年月
発表年月

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